第64回日光の社寺

第63回ジョージ・タウン

第62回マラッカとマラッカ海峡の古都群

第61回アントニ・ガウディの作品群

第60回テイデ国立公園

第59回カルタヘナの港、要塞、歴史的建造物群

第58回姫路城

第57回ムツヘタの歴史的建造物群

第56回エチミアジンの大聖堂と教会群及びスヴァルトノツの考古遺跡

第55回ゲガルド修道院とアザト川上流域

第54回ハフバトとサナヒンの修道院群

第53回ゴブスタン岩絵の文化的景観

第52回城壁都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、および乙女の塔

第51回富岡製糸場と絹産業遺産群

第50回フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路

第49回歴史的城塞都市カルカソンヌ

第48回ミディ運河

第47回ヴォーバン防衛施設群

第46回南部小ポーランドの木造教会群

第45回ヴィエリチカ岩塩坑

第44回クラクフ歴史地区

第43回ブハラ歴史地区

第42回サマルカンド・文化交差点

第41回ヒヴァのイチャンカラ

第40回チャトラバティー・
シヴァージー・ターミナス駅


第39回 デリーのフマユーン廟

第38回 デリーのクトゥブ・ミナールと
その建造物群


第37回 アジャンタ石窟群

第36回 エローラ石窟群

第35回 ガイランゲルフィヨルドと
ネーロイフィヨルド


第34回 ブリッゲン

第33回 琉球王国のグスク及び関連遺産群

第32回 グランド・キャニオン国立公園

第31回 カナディアン・ロッキー山脈
自然公園群


第30回 ピエルタンの歴史地区

第29回 トランシルヴァニア地方の
要塞教会群のある集落


第28回 カザンラクのトラキア人の墳墓、
バラ祭り


第27回 リラの僧院

第26回 ボヤナ教会

第25回 古都京都の文化財
(京都市、宇治市、大津市)


第24回 イスタンブール歴史地域

第23回 ギョレメ国立公園と
カッパドキア岩窟群


第22回 ハットゥシャ:ヤズルカヤ遺跡

第21回 ヒエラポリス遺跡

第20回 フェズ旧市街

第19回 古都メクネス

第18回 ヴォルビリス 古代遺跡

第17回 マラケシュ

第16回 アイット=ベン=ハドウの集落

第15回「紅河哈尼棚田群の文化的景観」
=文化遺産


第14回「中国南部カルスト」=自然遺産

第13回 白川郷・五箇山の合掌造り集落

第12回 石見銀山遺跡

第11回 原爆ドーム

第10回 厳島神社

第9回 屋久島

第8回 ベルンの旧市街

第7回 ラヴォー地区のブドウ畑

第6回 ルガーノ近郊のサン・ジョルジオ山

第5回 サンクト・ガレンの修道院

第4回 スイス・アルプス
ユングフラウーアレッチ


第3回 聖ヨハネ・ベネディクト会修道院

第2回 レーティシュ


第1回 ベリンツオーナ

【プロジェクト135】とは、合計年齢 135歳(開始当時)、目標体重135kgとし、トム・カーコー夫妻が日本全国47都道府県を自転車で旅するという壮大な企画から始まりました。なんと、2年かけて、2人は47都道府県を制覇!!
そして、日本だけでは飽き足らず、今度は世界へ飛び出します!

【プロジェクト135 パート2】では、世界遺産を巡りながら、世界の自転車事情をお伝えしていきます。


第62回(マレーシア)マラッカとマラッカ海峡の古都群

 この、世界遺産を巡る旅をしていて良い事はいろいろありますが、なかでも私にとって有難いのはその地のことを詳しく理解出来る事です。
行く前は、マラッカといえば海賊ぐらいしか想い浮かばなかったのですが、どうしてどうして、マラカ王国、ポルトガル、オランダ、イギリス、一時の日本占領、そしてマレーシア独立まで、変化に富んだ興味深い場所でした。この135を書かしていただいているので、ただ見てくるだけでなく、私なりに調べたりして、自分でなるほど、あそこはそんな意味のある場所だったのか、と納得したりしています。
マラカはシャムの脅威に対抗する為、明との朝貢貿易を盛んにし、中国からの人々が移住していた時代、アラブ商人との間接貿易から直接の交易を求めて攻めてきたポルトガル、代わってオランダ、そしてイギリスの植民地だった時代など、人種、宗教、文化が入り混じり、1957年に独立したあと、現在もマレー系67%、中国系25%、インド系7%と混じりあっています。
 マラカはマレーシアの主都クアラルンプールから南へ150kmほどバスで2時間ほどのほとんど赤道直下といって良い位地にあります。
 
■今回場所は

より大きな地図で プロジェクト135 第62回 「マラッカとマラッカ海峡の古都群」
(マレーシア)
を表示
いきなり食事ですみません。まるでお風呂上りのようでしょ?これが赤道直下なのです。何せ10℃ぐらいの日本から、いきなり33℃でしたのでこの通りです。
これがババ・ニョニャ料理です。マラッカはババニョニャによって発展したのだそうです。
ババ・ニョニャとは?私がニャッとすること?そんな訳はありません。
その古、中国本土から渡ってきた男性と地元のマレー系女性とが結婚して生まれた子孫のうち、男性がババ、女性がニョニャと呼ばれ、独自のババ・ニョニャ文化を築いたのだとか。これが中国人男性と現地女性。
これが、その間に生まれたババとニョニャです。
ババ、ニョニャは商工業で財をなし、ババニョニャヘリテージと呼ばれる豪華な住まいです。外観は大した事ありませんが、、、。
内はすごかったですョー。ホールまでしか撮影出来ないので、全部は紹介できませんが、ホールだけでも大したものです。
二階もあるのです。これはホールから撮っています。
オランダもそうですが、間口の巾に税金がかかるとかで、玄関はともかく、内部の豪華さ、それに奥行は100mもある家もあったのだそうです。
その大富豪が愛用した?当時の自転車です。
これが現代のマラッカの自転車です。
赤道直下でも自転車は活躍しています。
マレーシア最古の中国寺院といわれる青雲亭です。
本堂の屋根の上に飾られている動物や人の像が見事でした。
現地の人達は帽子なし。帽子を被っているのは日本人、トンボのサングラスは中国人だそうで。
ほらね、日本人は帽子被っているでしょう。これがオランダ広場です。
カンポン・クリン・モスクというそうです。スマトラ様式の屋根と白亜のミナレット。独特です。
これがイスラム教のモスク、といわれてもネー。
オランダ広場から登るとセントポール寺院があります。日本でなら何ということのない丘ですが、赤道直下、33℃。それで汗だくになってしまったのです。
フランシスコ・ザビエル像。彼の遺体はここに9ヶ月安置されたあとインドのゴアへ移されたそうです。右手がないのはここに右手だけ残したとか、ここへ来る前になかったとか、説明は聞いたのですが、暑くて暑くて忘れました。
セントポール寺院といっても、今はその外壁が残っているだけでした。
セントポール寺院から見下ろすサンチャゴ砦です。今は門の部分しか残っていません。その向こうに砦の外壁が囲んでいたそうですが、イギリスが勝った後取り壊したのだそうです。
これがポルトガルがオランダとの戦いに備えて造ったサンチャゴ砦の門の跡です。
昔はこんな具合に海と運河に囲まれたお城だったようですが、今、残っているのは門だけ。おまけに周りは埋め立てられていて公園の中のようでした。
これが、かつての王宮のレプリカだそうです。
赤道直下をこれだけ巡ってきたのですからご褒美、ご褒美。それにしてもマレーシアのビールは高いですョー。これでRM17。17マレーシアリンキット、500円くらいでしょうか。タクシーの初乗りがRM6.00¥180ぐらいですから、高い高い。
これが、かの有名なマラッカ海峡です。この15~20kmほど向こうがインドネシアのスマトラ島です。1824年、イギリスとオランダが英蘭協定を結んで、マラッカ海峡のこっち側マレーシアを英国が、むこう側インドネシアをオランダが占領することを決めたのだそうです。
そもそもマレーシアには太古からこのような家に原住民が平和に暮していたに違いありません。それが、香辛料が取れたり、良い風待ちの港があったりと自分達に関係のない国の人々が勝手にオラの領土だ、などといわれて現地の人々はさぞ迷惑だったことでしょう。
人間よりもっと古くから住んでいただろう象は、今、マレーシア全土で1000頭ほどになってしまったそうです。これはその保護活動のひとコマです。
マレーシアは1957年の独立以来めざましい発展をとげています。クアラルンプールは今や世界でも有数の大都市です。
でも、住んでいる人は太古の住民とあまり変わらないようです。多少色の違いはあっても現代の日本人ともあまり変わらないようです。こーやって、腹を割って(出して)話せば、世界は平和なのだ!とトーチャンはいうのですが、、、。これでこの黄色いオジサンはエビを一匹焼いてくれました。
クアラルンプールまでは成田からおよそ7時間、食べる物はおいしいし、種類は多いし、安いしとても良い所です。ビールが高い、暑い、は我慢のうち、歴史ある興味深い国でした。人々も大きくなく、安心感がありました。ここは皆さんおすすめします。次回はクアラルンプールから北へ350kmほどのペナンへ行きます。お付き合い下さい。
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