プロジェクト135パート2 第39回 (インド)デリーのフマユーン廟

 ここはムガル帝国第2代皇帝フマユーンの霊廟です。ペルシャ出身の王妃で信仰厚いムスリマであったハミーダ・バーヌー・ベーガムが1565年、事故で死亡した夫の為に建築を命令して9年の年月をかけて出来上ったムガル帝国建築の原型を示すといわれる霊廟です。また、後にムガール朝最後の皇帝バハードゥル・シャー2世がイギリスとの戦いに敗れたいわゆるインド大反乱の時に、この廟に逃げ込んで、イギリス軍に捕縛された地、ムガル帝国終焉の舞台となったところだそうです。前回のクトゥブ・ミナールはイスラム教がインドを制圧して、ヒンドゥー教の職人を使い、ヒンドゥー教とイスラム教の混ざり合ったモスクとミナレットだった訳ですが、ここフマユーン廟は時代が下って完全なイスラム教の零廟建築の遺跡です。
 
■今回場所は
 

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モスクはイスラム教の人々がお祈りする礼拝所、廟は偉い人のイスラム式のお墓です。つまりここは皇帝フマユーンのお墓です。
これが入口の門です。その向こうにも門があります。
 
門へ行くまでに、まわりはこんな堀に囲まれています。
 
はるかかなたに門が見えて来ました。
 
そして、門を二つくぐって本体が見えて来ました。これがフマユーン王のお墓です。国会議事堂ではありません。
 
まだまだ先です。ここにはフマユーン王、ベーガム王妃、その王子達、などなど150人もの人達が祀られているそうです。
 
ここはインドの人達にとっても有名のようで、修学旅行のような感じの団体もたくさんいました。
 
建物に近づきすぎるとその全景が撮れません。
 
建物の横へまわると裏へ出る通路というか、歩いてまわれる道があります。横手の堀までもかなり遠いでしょう?
 
そしてこれをまっすぐ行くと裏の堀までも同じ様に遠いこと遠いこと
 
これが裏から見た廟です。
 
そして、これが横から見たところです。くどい?いいえ、この廟の特徴は四方向がつまり、四辺が同じ様な建物なんですって。
 
これが16世紀の王様のお墓なのです。日本でいうと信長の頃に出て来たのでしょうか。
 
これが現代のインドの様子です。
 
雑然としてゴミだらけなのが現代のインドの町なのです。
 
人々は手持ぶさたに、何をするというでもなくたたずみ、おしゃべりをしています。
 
そんな町の中が嘘のように、フマユーン廟の中は、その敷地もチリひとつ落ちていません。
 
整然として、多くの雇用を生み出している事を想像できます。
 
池の清掃も立派な仕事です。
 
フマユーン王の話、ムガル帝国の話、インドの歴史はこうして若い世代へ語り継がれていくのです。
 
そしてインドの自転車です。
 
月光仮面も女の子を乗せて……あれ、皆さん月光仮面ってご存知ないですか?
 
インドは宗教がたくさんあるように民族もたくさん、その服装も多様です。
 
これは特別にお祭りがある訳でもなし、普通に町を歩いている人達です。
 
インドでは町中で動物をよく見かけました。ノラ犬、ノラ牛、ノラ羊、中にはノラ人間もいるそうです。
 
日本からのノラ人間も乗合バスに乗りました。といっても路線バスではありません、シャトルバスです。冷房なしで、30度の中、とても身体に良い経験でした。
 
バスのトビラというか、窓というか、とても風通しの良いバスでした。フマユーン王は乗らなかったと思います。
 
かくしてフマユーン廟を訪ねる1日が終り、のんびりと夕食を待っているところです。この日もカレーでした。
 時代もだんだん現代に近づいてきて、イスラムのムガル帝国最後の皇帝バハードウル・シャー2世がイギリス軍に捕らえられた、1857年~58年のインド大反乱の舞台でもあるフマユーン廟を見て来ました。次回はインド最終回、イギリス植民地時代を象徴するチャトラバティ・シヴァージー・ターミナス駅(旧名ヴィクトリア・ターミナス駅)を紹介します。お楽しみに。
 
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