プロジェクト135パート2 第12回 石見銀山遺跡とその文化的景観

 石見銀山と聞くと、どこかの炭鉱跡のようなものを想像していたのですが、とんでもない間違いでした。世界遺産としての石見銀山は、鉱山遺跡だけでなく、そこに栄えた鉱山町、銀を運んだ街道、それを積みだした港と港町という広大なエリアにわたる全体像が世界遺産なのです。

 今回ほど、行ってみないと分からないと思ったのは初めてです。そのうえ、世界遺産地域内と知らずに予約した温泉津は銀の積出港、沖泊港がある由緒ある温泉街、すごく得した思いです。

 
■今回場所は
 

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JRで広島から温泉津へ行くには、芸備線で三次へ、三江線に乗り換えて江津へ、山陰本線で温泉津駅への一日仕事です。広島から近くまで直通バスがあるのは知っていたのですが、鉄道で行きたかったのです。ところがこの夏の豪雨で三江線が一部不通、ジャンボタクシーでの振り替え輸送になりました。この写真は錆びた三江線の線路です。
 
この人は、三次から列車を運転してくれたJRの運転手さんです。何をしているかというと、不通区間で、振り替え輸送のジャンボタクシーに乗客と一緒に乗って、電車の来ない各駅で何かをチェックしているのです。とても珍しい体験をしました。
 
途中の石見川本で食べたお昼ごはん、仕事人定食とかの名前で、つまりアジフライ定食、500円とは思えない美味しさでした。
 
石見川本駅では不通のくせに 「さあ三江線に乗ろう」 というキャンペーンをやっていました。下手すると廃線になるという噂があるとか、、、。
 
石見銀山、鉱山遺跡の辺りでは無料のガイドツアーがあります。私たちについてくれたガイドさんです。さすがに良く勉強しているとみえて解りやすく、2時間があっという間でした。
 
いろんなことがあったのでしょう、そこらじゅうが塚というかお墓というか、、、。こんなのだらけです。
 
精錬所跡です。ガイドさんがいなければただの小さな水路です。
 
普通の家の向こうに見えるのが銀山の山、仙の山です。博多商人、神屋寿禎という人が海上からこの山を見て、銀が出ると言い当てたとか、、、。これが1526年のことと伝えられているそうです。ガイドさんの受け売りですけど。
 
このあたりには、いたるところにこのような間歩(まぶ、坑道)入り口があります。17世紀末には間歩の数は300を超えていたそうです。
 
これも今では中に入れない間歩の一つです。
 
これは観光用に中を整備された龍源寺間歩の入り口です。
 
中は今では整備されて私たちでも歩けますが、当時は座ってノミとハンマーで手で掘っていたのだそうです。
 
こんなような原石を掘り出し、初めは鉱石ごと当時の朝鮮へ積み出していたそうです。
 
こんな街道を10km程運んで積出港の鞆ケ浦や温泉津港から、精錬せずに積み出していたそうですが後に灰吹法という精錬方法を朝鮮から学び銀そのものを積み出すようになったそうです。
 
このような街道跡があちこちにあります。
 
あと目立つのが神社やお寺、お墓などの多さです。最盛期には100ケ寺もあったそうです。
 
銀山地区の町は直線でおよそ3kmあり、多くの人がレンタサイクル、レンタルEバイクなどで回りますが、中には贅沢にベロタクシーで回っている人もいます。
 
先ほどの銀山地区から積出港までの街道の反対側、温泉津の銀山街道の入り口というか出口です。
 
この道を港に向かうとこのような集落があり、まだ人が住んでいます。
 
尚も進むとかつての銀積出港沖泊港に出ます。ここは銀の積出港であるのと同時に、銀山地区の人々の生活を支える物資が九州などから着き、銀山へ運び込む入り口でもあったそうです。
 
天然の良港だったのが良くわかります。
 
これが現在の温泉津港です。沖泊港とは歩いて15分ぐらいの関係で両方とも温泉津の中です。
 
温泉津温泉は1300年とも1400年ともいわれる歴史を持ち、銀の積出港としてばかりでなく、お奉行様だかお代官だかのお屋敷などいかにも由緒を感じる町並みです。
 
世界遺産に登録されたおかげで、修理もままならないとか、それだけの理由でしょうか?
 
これがこの町の一番の温泉、薬師の湯です。大変結構でした。
 
薬師の湯併設のレストラン、大正ロマンを感じさせてくれます。ここが昔の一等席だそうです。今は料金は変わりません。
 
温泉津は焼き物の街としても有名だそうです。今でも使っている10層の登り窯です。
 
温泉津は両側から山が迫っていてそれを削っていろいろなものが作られています。これは削った山の下に作ったお宮です。
 
これは周りの崖を削って作った駐車場です。
 
これは岩をくりぬいて作った仏像やお地蔵さんたちです。鉱山が近く、岩を削るのはお手の物だったのでしょう。
 
温泉津で多いのはお寺、神社、などです。過酷な生活、歴史で神や仏が大切だったのでしょうね。
 
忘れていけない温泉津の名物に、猫、猫、猫があります。これだけ多いのには何か謂れがあるのかもしれません。漁港でもあるので、猫が住みやすいのでしょうか?犬はお寺に一匹いただけでした。お肉屋さんはありませんでしたね。
 
のんびりしていたら、台風26号に追いつかれてしましました。羽田が着陸不能、困ったと宿に相談、もう一泊できました。大きな声ではいえませんがのんびりできて、台風様様です。
 
宿は木造3階建てで、泊まっていた3階部分は大正時代の建物だそうです。台風からはだいぶ離れているのですが、障子やふすまが一晩中ガタガタしてよく眠れませんでした。
 
翌日、予定していた出雲空港も、その先の米子空港も羽田行は残席少々、なんせシルバー割引で乗るには空席がないと乗れません。仕方なく、だいぶ西になってしまいますが空席のあった、萩石見空港から乗るべく益田市へ戻りました。島根県立石見美術館には変わった自転車がありました。
 
JR益田駅からおよそ1km、グラントワという美術館と芸術文化センターの複合施設があります。展示品も立派ですが、この屋根瓦、壁にも使われている石州瓦、石見地方の特産物で、銀山地区、温泉津の辺りにもたくさん使われていましたが、この施設、なんと26万枚も使っているそうです。
 今回訪れた、「石見銀山遺跡とその文化的景観」の”文化的景観”というのは自然景観ではなく、人為が関わった 「人と自然との共同作品」と呼ばれる景観をいうそうです。石見銀山の文化的景観で、登録への大きなキーワードになったのは「自然との共生」であったそうです。現在の石見銀山は深い緑に覆われていますが、それは単なる自然の景色ではなく、江戸幕府が行った植林政策に起因しているのだそうです。日本は戦国時代で戦費の必要性、世界的にはスペインやポルトガルの大航海時代、キリスト教の布教や鉄砲の伝来などなど、日本史、世界史、をもう一度勉強したくなるようないろいろな要素を感じた石見銀山の旅でした。

 最盛期には人口が20万人だったそうですが、その真偽のほどはともかく、大勢の人々が集まり日本鉱業史上に名を刻んだ石見銀山は、国内のほかの有力な鉱山よりも早く、1923年には事実上の閉山を迎えたそうで、これが逆に幸いして、鉱山活動に関連した前近代の遺跡を随所に留めることとなり、世界遺産登録に寄与しているとのことです。

 行く前と、行ってからの印象がこんなに違ったのは初めてです。中に入れた間歩そのものは奥多摩の鍾乳洞よりも貧弱なものです。ですがそれに加えた歴史や”文化的景観”の意味などを考えると、石見銀山はお薦めです。屋久島のように遠い上に体力を要求されるわけでもなく、素晴らしい温泉はあり、何といっても新鮮な日本海の幸がふんだんに出てきます。

 皆さん一度如何ですか?

 
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